世界的有名なピアニストとして、多くの人々を感動させてきたフジコヘミング。2024年4月21日、92歳という年齢で亡くなり、大きな話題となった日本人です。今回この記事では、フジコヘミングの年収や経歴について解説していきます。
フジコヘミングの年収はいくら?
「ラ・カンパネラ」を代表作に世界的ピアニストとして活動していたフジコヘミング。年収は1億円以上と言われています。ここではフジコヘミングの収入源についてそれぞれ紹介します。
コンサート
フジコヘミングは世界中でコンサートを実施しています。その回数は年間50回以上。チケットも安くて8000円の値段で販売していたことから、1回の出演料は数百万円と言われています。出演料が100万円だっとしても、コンサートだけで5000万円以上の収入が入っていたことになります。
CDの印税
フジコヘミングは、演奏した楽曲をCDとしてリリースしています。1999年に発売した「奇跡のカンパネラ」は累計200万部以上の売上を記録したと言われています。定価3190円でそのうち印税が3%と仮定すると、累計の印税は約1億9000万円です。発売から25年ほど経っていることから年間760万円ほど入っていることになります。
フジコヘミングは他にもCDリリースしているため、年間1000万円近い印税が入っていたのではないでしょうか。
書籍の印税
フジコヘミングは、書籍も出版しています。出版した数は30以上と言われており、絵本やエッセイ本など様々なジャンルの書籍を世に送り出しています。多くの書籍を出版していることから、年間の印税は1000万円以上と予想されています。
絵画
フジコヘミングは絵を描くことも仕事にしています。定期的に絵画展を出展しており、そのたびに収入を得ていたそうです。現時点で絵画1枚辺りの値段は付けられていませんが、世界的ピアニストが描いた絵として今後価値が上がる可能性が高いでしょう。
番組や雑誌への出演
フジコヘミングはテレビ番組「徹子の部屋」やNHK番組などに度々出演していました。テレビに出演するのは年に数回だったと言われています。
また、雑誌にもインタビューという形で定期的に出演していました。音楽家へのインタビュー代は相場として1回あたり50万円ほどになるそうです。
フジコヘミングの若い頃など経歴を調査
フジコヘミングの経歴について紹介していきます。
幼少期
1931年6月、スウェーデン人で画家のヨスタ・ゲオルギー・ヘミングと日本人ピアニストで留学中の大月投網子が結婚。その年の12月にドイツベルリンでフジコが誕生しました。フジコヘミングはスウェーデン国籍になる前、長い間無国籍の状態が続いたそうです。
1932年7月に日本へ帰国し、父は日本に馴染めずスウェーデンへ帰国、母親と共に東京都渋谷区で居住し、母親の教育でピアノを教わります。
学生時代
小学3年生の頃にNHKラジオに生出演。天才少女として話題になります。1945年2月に家族と岡山県へ疎開し、岡山県の高等女学校へ入学。そのまま学徒動員され、終戦後に青山学院高等女学院へ転校します。その後、新制青山学園高等部3年へ進級。17歳の頃にデビューコンサートを行い、高等部卒業後は東京藝術大学音楽学部に進学します。
大学在学中の1953年にNHK毎日コンクールへ入選し、その翌年に2位を獲得。他にも多数の賞を獲得します。
留学
大学卒業後、本格的に音楽活動を開始し、多数のオーケストラと共演を行います。その際、ピアノ留学を望んでいましたが、パスポートを申請した際に無国籍だったことが判明します。
その後はピアニストとして音楽活動を継続しながら留学する方法を模索。1961年に駐日西ドイツ大使の尽力によって西ドイツ赤十字社認定難民として国立ベルリン音楽大学へ留学します。
ヨーロッパ活動中に難聴に
作曲家で指揮者を務めるブルーノ・マデルナに才能を認められソリストとして契約したが、貧困で冬に暖が取れず風邪を悪化させ失聴。16歳の頃に右耳の聴力を失っていたが、この風邪で左耳の聴力も失います。
フジコヘミングは音楽活動を中断し、ストックホルムへ移住。治療に専念し、左耳の聴力は40%ほど回復します。その後はピアノの先生を務めながらヨーロッパ各地でコンサートを続けます。
日本へ帰国
1995年、日本へ帰国しコンサート活動を行います。1999年にはNHKでフジコヘミングを特集した番組を放送。大反響となりフジコブームが到来します。その後、デビューCD「奇蹟のカンパネラ」を発売し、異例の大ヒットを記録しました。その後はソロ活動や海外の有名音楽家との共演を行い世界中で活動を続けます。
すい臓癌の発覚
2023年11月、自宅会談で転倒して脊髄損傷の大けがを負います。この時、脊髄損傷の治療やリハビリを努めていましたが、すい臓癌も発覚。2024年4月21日にすい臓癌により死去。92歳という年齢でピアニストとしての人生に幕を下ろしました。
フジコヘミングが無国籍だった理由は?
フジコヘミングが18歳の時に無国籍だった理由は、スウェーデン国籍のまま日本へ帰国し、長期間滞在していたことでスウェーデン国籍を失ったからです。
この時、母親が日本人なので日本国籍を取得しようと役所に行ったが、意地の悪い役人たちによって日本国籍が与えられなかったそうです。
国籍が取れない中で、海外留学したいと考えていたフジコヘミングは、1960年に出会ったドイツ大使に難民としてドイツへ渡ることを提案されます。そこで彼女はドイツへの海外留学を果たすことができました。
フジコヘミングとは
フジコヘミングとは、世界で活躍していた日本人ピアニストです。本名は「ゲオルギー=ヘミング・イングリッド・フジコ」。スウェーデン人と日本人の間に生まれたハーフです。
20歳の頃から愛煙家として過ごし、89歳で禁煙。過去にはドキュメンタリー番組にて、タバコを吸いながらピアノを演奏する姿を披露し、お茶の間に衝撃を与えました。
まとめ
今回は、ピアニストとして世界中で活躍し92歳という年齢でこの世を去ったフジコヘミングについて解説しました。
フジコヘミングは年収1億円と言われており、豊富な資産を持っていると予想します。遺産相続については、遺言書次第ですが、フジコヘミングの姪となる大月ウルフの子供が代襲相続している可能性が高いでしょう。
2025年1月、フジコヘミングのラ・カンパネラに出会ってピアノを始め、テレビ番組をきっかけに共演を果たした男性の物語を描いた映画が公開されています。興味のある方は映画「ら・かんぱねら」を視聴してみてはいかがでしょうか。